脱走する写真

近頃、学生の頃に読書会で取り上げた「脱走する写真」のことばかり考えている。1990年に水戸芸で開催された展覧会で、森村泰昌今道子、ソフィ・カルなど、現代美術の領域で語られるべき写真家たちがピックアップされていた。

ちなみにこの展覧会が開催された頃、私はまだ産まれてすらいない。

 

中でも三上浩(彫刻家)と達川清(写真家)による「QUAU in photo」という仕事は興味深い。全暗室で石を彫り、飛び散る火花を写真で記録する。そしてその写真をプリントし展示するというもの。

 

三上浩+達川清「QUAU in photo」:artscapeレビュー|美術館・アート情報 artscape

 

リンク先記事、シンプルに良い文章だなと思っていたら、執筆者が飯沢先生でビビった。

 

それはさておき、(正確には「石を彫る」行為であるのだが)「石を打つ」という行為には、火おこしや石器などの原始的なものを想起させられる。が、それ以前にこれは作品なので、パフォーマンスであるという前提がある。つまり、「石を打つ」という「演技」をしているのだ。

その前提を我々は知っているので、プリミティブな要素に加え、宗教や呪術的な側面を強く意識する。

 

逆説的に言えば、この呪術じみたパフォーマンスをパフォーマンス足り得るものにしているのは、鑑賞者の目あるいはカメラの存在という前提である。

 

カメラを前提としたインスタレーション作品の制作は、「QUAU in photo」以外にも度々現れている。

つまり、MoMAで1978年に開催された「鏡と窓」展などに見られた、『カメラを介し「撮る者/撮られるものを分け隔てる(こちら/あちらの断絶)」という関係』があった時代から、その関係性あるいはカメラという存在を越えていく動きが確かにあったのだ。 

 

それらは、どのようにそれ以前の写真の在り方を裏切り、どのように写真の可能性を前進させたと言えるのだろうか。