みえるもの/みえないもの

中学生の頃に読んだ何かの漫画の冒頭で(確かコミック版「蛇にピアス」だったと思う)、主人公が皮膚の「内側/外側」で「自己/世界」を区別していた。ひねくれていた私は、それを読み違和感を覚えつつも「実直で良い考え方だなあ」と感心した。

 

ただし実際のところ、物理的な「内/外」「他者(あるいは世界)/自己」という区別をベースにして語ることのできるものというのは案外少ない。

(と言いつつ、声が発せられた瞬間にその言葉が自分のものでなくなるような感覚も、自分自身とそれを取り巻く環境の境界が曖昧になる感覚も、私たちは知っている。)

 

そして、この二項対立的な考え方に疑問を呈した哲学者にメルロ=ポンティがいる。

意識と身体、そしてその自覚の問題について、代表的な著作『行動の構造』や『知覚の現象学』などの中で読むことができる。

 

『知覚の現象学』M・メルロ=ポンティ | 現代美術用語辞典ver.2.0

 

2012年、豊田市美術館で「みえるもの/みえないもの(Visible / Invisible)」というコレクション展が開催された。

明確に引用されていないものの、そのタイトルからメルロ=ポンティの著作『見えるものと見えないもの』を連想させられる。

 

常設特別展「みえるもの/みえないもの」 | 豊田市美術館

 

ソフィ・カルの『盲目の人々』や志賀理恵子の『カナリア』など、写真というメディウムを用いた現代美術の作家による仕事が多く紹介されていた。

当時私は大学1年生だったために正しく読み取れた自信は無いが、我々の前に立ち現れる世界について、またその再提示の方法について、丁寧に企画・構成された展覧会だったように記憶している。

 

写真は提示する側も受け取る側も、つい“私”と“世界”という見方に陥りがちである。身体性の介在が見えづらいのが大きな理由だろう。

この時の“私”とはあくまでも「“いま”“ここ”にいる“私(=撮影者あるいは鑑賞者)”」のことであり、その「いま・ここ性」の再現/意識の根底には、無意識的な「“私”と“世界”の断絶」が存在することが少なくない。

 

上村博は著書『身体と芸術』の中で「身体とは、『自分』の意識を実感させる物体を指す」とし、「肉体が他の何らかの物体ではなく、まさに私の身体だ」と感じる状態においては、肉体が自分の意識に結びついていると述べている。

 

身体を「自己と外界とを媒介するメディウムである」とするならば、もちろん境界は肌表面には存在しない。より曖昧で、連続的なものである。

そう考えると、撮影機材を自身の身体に例える写真家を「精神論者だ」と軽蔑していたが、あながち間違いではないのかもしれない。

 

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